


昨日のブログを書いて思い出しました
自分が小学4年のときのことを
私の人生の中でも、かなり強烈な1年でした。
4年生の時、担任は、3年から引き続きの先生でした
ところが、その先生がとつぜん脳溢血で倒れてしまったんです
代わりにやってきたのが
大学出たての新任教師、22歳でした。
私達は前の担任が大好きだったので
そのいかにも頼りない新任を
「お前なんか先生と認めねー!」
と、思い切り態度であらわしてました。
私たちはもうやりたい放題
ほんの2~3人の子が机について授業を聞いてるだけ
授業は聞かない、勝手に外で遊ぶ
教室の備品は破壊しまくり
壁に落書きしまくる
『ごくせん』(あまりちゃんと見てないですが)みたいな教室の風景でした
その頃、小学校の境目にある競輪場で
となりの小学校との縄張り争いの抗争も勃発していました
向うの学校が低学年(1~2年)しか居ない所を襲ってきて
私の弟も頭から血をながして帰ってきました
怒った私たち3~4年グループは
またその競輪場の駐車場に隣の学校の児童がいるところを
ローラースケートで攻めにいって
ボコスコにやって帰りました
そしたら後日、こんどは向うの5~6年が
私たちの小学校まで復讐に来たんです
バットなどで武装して・・・
私たちは一方的にボコられました
小学生ですから、女も男も関係なく
私たちは6年に泣きつきました
6年たちは私たちの復讐のために
隣の小学校に攻めにいってくれました
そこでまたそうとうなことをやったみたいで
(まぁ小学生のことですからガラスを割ったりその程度ですが)
結局、校長同士が電話で大喧嘩して
どうおさまったかしりませんが
遺恨は残ったみたいです。
・・・っていう感じの小学4年だったのですが
そういえば親が呼び出されたり、
大問題になったりとか
ぜんぜんなかったんですよね
子供同士のケンカ、学校でのことは学校でって感じで・・・
バットや石で殴りあったりしたって
所詮は子供のケンカ、大怪我にいたることはなく
あざつくって額から血を出して帰っても
親も赤チンぬって笑ってた程度でした
・・・今なんて、一回蹴ったとかノートに悪口書いたとか
それだけで親呼び出しくらいますからねぇ・・・(ーー;)
そんな小学4年のときの私の通知表はひどいもんでした
先生は私が憎くてたまらなかったと思います
だって、全く授業聞いてなくても100点ばっかりでしたからね
マジメに授業受けてる子がどれだけやっても私にはかなわなかったので・・・
(これは自慢ではありません、”お勉強できる”=”幸せ”につながらないというストーリーの伏線ですよ)
親は顔色を変えました
以前にも書きましたが、私は成績が良い(イコール東大一直線)
ということを宿命づけられた子供でしたから
そして塾に入れさせられました
これが私の運命を変えることになるのです
入塾テストで、私はかなりの好成績をとったようです
親が呼ばれ、塾の教師は言いました。
「お嬢さんは特別クラスに入れるべきです、
私立中学を受験するべきです」
と
もう親は上機嫌ですよ。
もちろん特別クラスに入れさせられました。
週5日、塾の先生が車で迎えに来て
片道1時間かかる塾の本校で
夜9時まで勉強でした
夏は夏期講習
冬は冬期講習
正月もありません、大晦日も授業
実は、私はそれが楽しくてたまりませんでした
小学校の授業に飽き足らなかったのです
塾での勉強は難しいですが
それだけやりがいを感じました
だまっていてもトップだった私も
エリート集団に入れば『並』ということを知り
ライバルもでき
なによりも、勉強ができるということで叩かれるということがないのが
とても心地よかったのです・・・
だってみんな勉強ができるから
嫉妬されないんです
模試なんかがあったら
学校の行事なんてモチロン欠席
運動会も出ずによくてラッキー!
絵に描いたような中学受験生活の始まり
それが小学4年生
つまり、今の私の息子の年です
今にして思うと
ほんっっっっっっっっっと
憎ったらしくて
いや~~~~なガキだったと思いますよ・・・
私は息子には絶対に
同じ道を歩ませたくありません(><)
私は志望校にも余裕で合格
親も大喜び
・・・・しかしこのときは悲惨な私立中学生活が待っていることも知る由もなく・・・・
写真は3歳の頃の私
「この頃は可愛かったのにね~!(今は可愛くない!)」
と母親にいつも言われてました
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体重:53.6
脂肪:22
・・・げ!脂肪が増えてる
原因は夜中のチーズケーキです
(睡眠薬が効いている間に徘徊するからタチが悪いーー;)
練習復帰まで減量は難しいかな~